ノートのすみっこ

せつきあの小説置き場

TKYMnight

初出:2019/02/24

先輩の魅せない一面を見てしまったハルちゃんの話。



 朝凪駅前交番。そこはその名の通り、朝凪特区の中心地である朝凪駅の駅前に設置された交番で、主に三人の警官が常駐している。見た目は何の変哲もない交番だけれど、その実情はほんの少し、普通とは違った。
 ここに配属される警官の第一要素は、武力。ここの警官たちは、銃火器の使用以外の武力行為を、警察業務の範疇に限って例外的に認められている。朝凪特区で起こる様々な事件、渦巻く闇、暴れる者たちを、善良な市民に被害が出ないうちに迅速に、制圧しなければならないからだ。その必要があるから「特区」に認定されている街なので、当たり前の話なのだけれど。
 そんな場所だから、腕っぷしに覚えがある人はここで力試しをしてみたいなんてよく言うのだけど、本当にここで働いていける人間は、限られる。身体も心も強くないと折れてしまう。色んな意味で。僕――大川陽も、配属されたは良いけれど、この先ここでやっていけるのか、今も不安でたまらない。
 逆に言うと、ここで働ける人間を"上"は放しはしない。放して貰えなくなった人を一人知っている。彼だってもう何度も異動願を出している筈なのに、腕試しをしたいと言っていた人たちが配属されてこないのは、つまりそういうことだろう。
 その人は今日も、おもての事務机の前に座って、近くの朝凪高校の生徒と話している。交番なんて普通は、そうそう溜まり場になるような場所ではないと思うけど、色々あって朝凪駅前交番は主に朝凪高校の生徒がよく入り浸っていた。「彼」は、そんな高校の生徒たちにも人気な、僕の先輩警官だった。
 裏の控室から、おもての事務机でコーヒーを飲む彼をそっと伺う。今日話しているのは……ああ、妹さんだ。今朝凪高校の三年生の妹さん。互いに少し口が悪くて短気で、兄弟喧嘩は絶えないようだけれど、僕にはその裏側に強い絆があるように見えていた。
『――だから、もし受からなかったら、就職を……』
『ああ?止めとけ馬鹿、だったら浪人したほうが……』
『でもそれじゃお金が……』
締め切られた控室の扉に背を預けて、僕はそっと紅茶を飲む。交番で話すことではないだろうけど、きっと学校で進路の話をされたのだと思う。受験勉強も本格化する11月、不安になる気持ちもわかる。僕は、大学に行っていないけれど。
 「彼」――高山さんも、大学には行っていないはずだ。警察になる道には、国家公務員になる場合と地方公務員として入る場合がある。地方公務員の場合、高卒で入ってくる人も多い。階級は一番下、交番の警官からで、出世しても本部の偉い人になることは少ないけれど、大変な国家公務員試験を受けなくていいので、体育会系の人なんかはこの道で入ってくる。僕もこのパターンだから、高卒でも問題なかった。対して高山さんは、高卒だけれど、きちんと国家公務員資格を持っている。
 彼の事情は複雑を極めている。詳しい話を本人に聞いたことはないけれど、噂に聞くところによると、家の事情で大学に行けなかったらしい。だから独学で勉強して資格を取って、警察官になった。国家公務員資格を持っている人は所謂「キャリア組」で、交番勤務は最初の1、2年だけ、あとは本部で"上"の仕事に就くのが普通だ。けれど高山さんは、真っ当な「キャリア組」の道を歩むには、現場の警察官として優秀すぎた。
 彼は頭が良い。頭を使った仕事が出来る人だ。きっと大学だって、環境さえ整っていれば有名大学に進学できたんだと思う。だけど、朝凪市が地元で、朝凪特区の表事情にも裏事情にも精通していて、何よりとにかく喧嘩が強くて、前任者が手を焼いた所謂「ヤンキー」たちをどんどん手懐けていった実績が、あまりにも輝かしかった。"上"は仕事が出来る人間を手放さない。彼は、もっと高い地位で働く力を持ちながら、こんな交番で飼い殺されている。
 普通、大学生ですらダブルスクールをして取る国家公務員資格を、高校時代に独学で取った彼は、かつて血のにじむような努力をしたという。こんなことになるなら、そんなもの取らなくたってよかったのに。
 おもての事務机では、また高山兄妹が言い争いをしている。互いに家計を思っているのだろうけれど、きっと高山さんは意地でも妹に大学進学をさせるだろう。きっと「金なら俺が稼いでいる」とでも言ったに違いない。妹さんは、お兄さんの手を煩わせたく無かったに違いない。
 高山さんの給料を僕は知らないし、階級的に僕ら普通の交番勤務よりは貰っていると思うけど、きっと真っ当に「キャリア組」の道を歩いていたら、今頃もっと高い給料を得ていたに違いない。そうしたら妹さんと喧嘩することもなかったかもしれない。彼は、そんな未来を得る権利も有していたはずなのに。
 ドアの向こうで、高山さんが静かに何かを言った。くぐもっていて聞き取れない。妹さんはそれに言葉を詰まらせたようで、捨て台詞のように「わかったよ」と言う声が聞こえた。
『頑張れよ』
『……うるさい』
ふん、と拗ねた顔で彼女は交番を出ていく。それを見送って、僕は扉を開けた。
「高山さん、大丈夫ですか?」
「あ?何が?」
「喧嘩してたみたいだったので……」
控えめに尋ねると、彼は少し瞬きをして、ああ、とため息をつく。「あのガキが強情なだけだ」と言うその言葉は行儀よくないけれど、妹想いな優しさが滲んでいる気がした。
「ところでハル」
「はい?」
「盗み聞きとはいい度胸だな」
パキ、と指を鳴らされて、僕は急いでパトロールへと逃げ出した。



 高山さんはすごい。
「じゃーなーハル、ヒロちゃんによろしく!」
夜の朝凪をパトロールする僕に朗らかに手を振るのは、所謂「ヤンキー」の一人、その中でも有名な、藤堂椿という男だ。片手には手遊びのようにくるくると回すナイフ。危険物所持で取り締まるべきだと思う。でも多分、僕がそんなことをしようものなら、手錠を嵌めるより先にナイフで刺されると思う
。ヤンキーの世界は実力主義だから、彼が有名だということは、それだけ喧嘩が強いことを意味する。
 彼は、強いなんてものじゃなかった。倫理観が壊れている。徐々に痛ぶる、とか手加減する、なんていう思考は欠片もなく、こいつぶっ殺してやると思ったら初手でナイフを突き立ててくる。その時、赤銅色の瞳はギラギラ輝いていて、最初に目の当たりにした時は、情けないことに恐怖で動けなくなってしまった。
 話をしようにも、彼は基本的には聞いてくれない。なんとなく、人間不信なんだろうなと思った。人から聞く話の八割は、聞く前から信用していない気がした。
 高山さんは、残りの二割だ。彼は、高山さんの話には耳を貸す。実はそれなりに長い付き合いで、昔は紆余曲折あったらしいけれど、結果的に今、彼を制御できるのは高山さんだけだった。今日も彼に声をかけられ、散々弄られ、それでも生還しているのは、僕が高山さんの後輩だからなのだと思う。
 朝凪商店街から一本裏の通りは、彼のテリトリーだ。高山さんは「朝凪の治安を乱すもの」だった彼を、うまく手懐けて「朝凪の治安を守るもの」側に引きずり込んだ。つまり彼は警察の協力者で、僕はパトロールの度、高山さんの代わりに近況を聞きに行く。協力者である以上、そうそう殺しにかかったりはしない、と思いたいけれど彼に関しては分からない。裏通りを抜けた先の塀に凭れながら、僕は今日もなんとか動いたままの僕の心臓をそっと撫でた。
 高山さんには、そういう人が沢山いる。そういう、高山さんでなければ制御できない、という人が。
 本当は、もう朝凪は大丈夫です、だから本部の仕事に行ってください、と僕が胸を張って言うべきだと思う。あの人はそうなるべき人だし、それが本来の姿だと思う。だけど、彼がいなくなった朝凪には、彼が整理して抑えていた混沌がまた戻ってきてしまうだろう。僕はこのざまだし、もう一人の先輩はすごい人だけど、朝凪の危険分子をまとめているのは高山さんだ。
 彼は、どう思っているのだろう。弱音を吐いているのは聞いたことがないけれど、また今年もここかよ、と文句を言っているのは聞いたことがある。"上"は、仕事の出来る人を手放さない。例え本人が異動を望んでも、心配した家族が歎願しても。
 ここの仕事は過酷だ。内情を詳しく知らない人は、腕試しだとか言って就きたがるけれど、痛むのは、暴力沙汰に付き合った身体だけではないのだ。
 裏通りを出た僕は、朝凪商店街の表通り、メインストリートへと足を踏み入れる。表通りは、誰のテリトリーでもない、ニュートラルな場所だ。それだけに余計に何かが起こりやすい危険な場所でもある。昼間は賑わっているけれど、日付が変わる時間ともなれば、その様相は一変するものだ。今日も、ああ、ほら、明らかに未成年と思しき少年少女がシャッターの閉まった店の前でたむろしている。補導対象だけど……顔に見覚えがある。男の子は、暴力を奮う父親から逃げて、夜な夜な徘徊している子。隣の女の子は、家庭環境が合わなくて、家出を繰り返している子。顔を覚えることには自信があるから、間違ってはいないと思う。一度警察で保護したことがある。今日は、児童相談所に連絡を入れることになるだろう。
 朝凪では、こんなことはよく見かける。人が集まる人気の都市である一方、ヤクザ、薬物のバイヤー、ギャンブル中毒、そういった世の中の「闇」にどっぷり浸かってしまった大人が沢山いるのがこの街だ。そんな大人の子供たちも、真っ当な生活を送れないという。心が痛む話だけれど、そんな大人が沢山いるなら、そんな大人の子供も一定数生まれてしまうのが世の中だ。
 それでも、僕が見ている「心が痛むもの」は、まだマシな方なのだと思う。闇にどっぷり浸かった大人たちの世界は、時に人道を外れ、時に残虐で、街に凄惨な跡を残していく。そんな現場に、先輩たちは僕を連れていかない。先輩たちは気丈に振舞って、若輩者の僕を守ってくれている。それでも、そんな現場から帰ってきた先輩たちの様子はいつもと違うから、分かってしまうのだ。自分が見たことがあるものより、よっぽどえげつないことが起きたのだろうと。
 でも、たしかに僕は若輩者で心も未熟なのかもしれないけれど、たかだか数年は、そんなに人の心を大人にするものだろうか。偉大なる先輩の一人、高山さんは、その実績こそ輝かしいけれど、年齢だけなら僕と10歳も変わらない。大学に行っていたら、新社会人として先輩に守られている歳だと思う。今の僕みたいに。
 その数年の差は、そんなに人を強くするのだろうか。世の中の闇も不条理も、全て呑み込んで平気でいられるようになるのだろうか。
 たむろする少年たちに声を掛けようと、足を踏み入れた商店街。もうやっているお店は少なく、街灯だけに照らされた薄暗い通り。昼間と打って変わって、どこか不気味な雰囲気さえ感じる道だ。けれどその中に一際煌々と明かりを灯す場所があって、僕は少しだけそちらに視線を向けた。
 ――そして、足を止めた。
 このお店は、昼間は朝凪の学生達に人気の喫茶店のはずだ。先輩たちに連れられて、僕も何度かお昼を食べに来たことがある。渋くてコーヒーを入れるのが上手いマスターと、朗らかで気が利くマスターの娘さんが経営していて、その温かい雰囲気も人気のひとつなのだと思う。よくそこで勉強している、もはや常連となっている学生さんもいるらしい。
 でも、普段はこんな遅い時間までやっていなかったと思う。お酒の提供が無い訳では無いお店だけど、せいぜい11時頃で閉まっていたような。
 通りの反対側からそっと、明かりの点った店内を覗き見る。日付が変わってまでシャッターが閉まっていない理由は、どうも今日のお客さんにあるらしかった。
 ガラスの壁の向こう側、マスターとマスターの娘さんが立つカウンターに、二人の男性が座っている。一人は、パーカーにジーンズというラフな格好をしている。もう一人は、ワイシャツに黒のスラックスとかっちりした格好だ。足元も……見にくいけれど、黒の革靴に見える。背中しか見えないけれど、その後ろ姿と服装は、なんだか見覚えがある気がした。
 人の特徴や行動を観察し、記憶するのは、警察官の必須スキルだ。パーカーの男性は、カウンターに突っ伏しているようにも見えるワイシャツの男性の背中を優しく撫でる。なにか気落ちしているかのようなワイシャツの男性の前に、マスターがそっとコーヒーカップを置く。マスターの娘さんは、息子を見守る母のような、優しい眼差しでワイシャツの男性を見ていた。
 知り合いなのだろうか。あるいは、常連であるとか、とにかく近しい間柄なのだろう。彼らのためにお店を夜遅くまで開けているのだろうということは想像がつく。でも、やっぱり見覚えが……。
 マスターのコーヒー、黒いスラックスと黒い革靴のスーツ、この喫茶店の常連で、隣には同い年位の男性。その男性が、ふと徐に体勢を変えて、その時見えた横顔が恐ろしく整っていて、僕は自分の推理が正しいことを確信した。
 こんなに整った顔は他に見ない。いや、彼の弟は同じように整っているけれど、それは同じ親から生まれたのだから除外して、この街にそんな綺麗な顔はその二人くらいしかいない。
 あの人は、時々交番に来て入り浸っている人の一人だ。確か、とわ、と呼ばれていた気がする。高山さんの高校時代からの友人で、平日の昼間から来ることもあるから何をしている人なのか全然わからないけれど、アメリカで仕事をしていたり情報セキュリティに詳しかったり、ただものではないのだろうと思っている。
 ならば、隣にいるのは、その友人に違いない。顔が綺麗なただものではない男性の友人にして、僕の先輩。
 僕はその光景を、足を止めて暫く見ていた。ちらっと聞いた話では、高山さんよりとわさんのほうがひとつ年下らしい。交番で話している時には確かに、彼を高山さんが嗜めるような構図だった。でも今は、雰囲気が違う。
 高山さんと思われるワイシャツの男性の肩を、とわさんが叩く。その様は、彼を慰めているように見えた。とわさんが慰めているという構図も、僕でさえ慰めようとしてしまうような高山さんの態度も、見慣れない光景だった。
 ふと、とわさんの目がこちらを向いた。バレた、と思った。バレたと言っても、何もやましいことはないのだけど。彼は僕を見て、すぐに高山さんの後輩だと分かったらしい。
 片手で背中をさすりながら、彼はそっと、人差し指を口元に当てて、僕に合図を送った。
「――……っ」
見てはいけないものを、見てしまったような気持ちになった。友達のデートに遭遇してしまったような気分だった。僕の知っている高山さんではなかった、気がする。あれは、後輩である僕が見てよいものではなくて、とても親しい人間だけが垣間見ていいような――
 ――ああ。きっと、そういうことなのだ。
 友人だ、と高山さんは言っていた。けれど、それ以上の何かがあるように見えた。共に修羅場を潜り抜けて来た戦友のような。波乱の人生を互いに支え合って生きてきた親友のような。
 超人のような偉大なる先輩だって、その心に何も負っていないわけではないのだ。僕が特別弱いのではなく、かといって高山さんが特別強いのでもない。闇にさらされ続けて、異動願は受理されなくて。痛かったし、辛かったのだろう。あの人が僕の前で偉大な先輩で居続けられるのは、この街に君臨する最強の朝凪特区担当警官でいられるのは、こんな風に、支えられているからなのだ。
 とわさんに、僕は大きく頷いて返す。そして、急いで店から離れる。
 僕は。
 僕は、もっと強くならなくてはいけない。守られている後輩をすぐにでも卒業できるようにならないといけない。現状は、高山さんに負担をかけすぎている。高山さんを支えられるような実力を身に着けて、高山さんを本部に送り出せるようになって――。
 被りを振る。そんな壮大なことを考えるのは、後でにしよう。真夜中の朝凪商店街に視線を戻せば、僕に気付いた少年たちが顔を上げてこちらを見ていた。
 まずは、目の前のことを、誠実に。高山さんが持っているのは、世の中の人が蔑むような闇にどっぷりつかった人間にさえまっすぐに対応する、その誠実さだ。
「――こんばんは。また、家にいられなくなった?」
笑いかける。僕の制服に強張った顔をしていた二人が、少しだけその雰囲気をやわらげた。